貧困とおっぱいと釣り竿。『万引き家族』を観てきたのでレビューする。

松岡茉優のおっぱい

だけ見てたそこのあなたへ。
遅ればせながら「万引き家族」を観てきたので感想書きたいと思います。

 

郊外のシネコン

観てきました。腕に龍の入ったヤンキーとその連れのギャル、襟足の長い子供たちのいる館内をすり抜け劇場へ。
観客はまばらで20-30代一人女性客がぽつぽつなレイトショー。

 

「おもしろい」というよりは「目を背けたくなる」タイプの映画でした。
多くの切り口があって語ればキリがないのですが

・エンターテイメントとして伏線回収の気持ちよさ

松岡茉優のおっぱいの画力

(海街diary長澤まさみの脚がそうであったように)

安藤サクラの肢体
・子役含め、演技力の高すぎる俳優陣 
・生々しいJK見学店の描写
➜フジテレビ資本なのにテレビ放映できるのか心配になるほど…

 いろいろ観るべきポイントの多い映画でした。

 

1回しか観てないので答え合わせしてませんが、映画を観た勢いのまま書いてみます。

 

(以下、ネタバレを含む感想です)
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東京の下町。高層マンションの谷間に取り残されたように建つ古い平屋に、家主である初枝の年金を目当てに、治と信代の夫婦、息子の祥太、信代の妹の亜紀が暮らしていた。彼らは初枝の年金では足りない生活費を万引きで稼ぐという、社会の底辺にいるような一家だったが、いつも笑いが絶えない日々を送っている。そんなある冬の日、近所の団地の廊下で震えていた幼い女の子を見かねた治が家に連れ帰り、信代が娘として育てることに。そして、ある事件をきっかけに仲の良かった家族はバラバラになっていき、それぞれが抱える秘密や願いが明らかになっていく。息子とともに万引きを繰り返す父親・治にリリー・フランキー、初枝役に樹木希林と是枝組常連のキャストに加え、信江役の安藤サクラ、信江の妹・亜紀役の松岡茉優らが是枝作品に初参加した。
https://eiga.com/movie/88449/

万引き家族作品情報 映画.com


思い出した2つの貧困映画

血の繋がりのない6人が、身を寄せ合い生きていく。
この家族がいつか終わってしまうことを誰もがどこか気づいている。

当事者である彼らに加えて、観客である私たちも。

 

この映画を観てパッと頭に浮かんだ映画が2つあります。

1つは『そこのみにて光り輝く』で、散らかった部屋で身を寄せ合って生きている様や、食事メニューの粗雑さ、貧困の連鎖を断ち切れないカルマが共通してるなと。

もう1つは『東京ゴッドファーザーズ』です。

幼い子をさらって自分たちの手で育てるという共通のモチーフ。

彼らはオカマでありホームレスですが、同じく貧困を背負って生きる身でありました。

 

一方は生活をともにし、一方はそれぞれの幸せを掴む。

どちらの映画も希望を感じさせるような終わり方でした。

 

万引き家族においてはハッピーなのかバッドなのか、観客にその後を委ねる構成になっています。この映画が社会問題性を孕み、自分の周りでもあるかも…というリアルな描写が多いこともまた、この映画を語ってしまう要素なのかもしれません。

 

万引き家族における“盗み”

タイトルにもある「万引き」に加えて、この映画には「盗み」がテーマとして通底しています。

簡単に

1、店頭からモノを盗む➜万引き
2、人の家族から人を盗む➜誘拐
3、人の心を盗む➜???

のような構造を取っていると解釈しました。

 

1、2が明確な犯罪行為であるのに対して
3が場合によっては深い愛情であったり、罪であったりすることがこの映画の重要なポイントです。


慈愛による盗み、これは果たして罪なのか。

人を救うための誘拐は、愛じゃないのか。

 

安藤サクラリリーフランキーはそれを客観的に証明することができませんでした。

また松岡茉優樹木希林に対して「お金じゃない繋がり」を感じ取っていたことにも通じます(樹木希林の言葉もまた、警察の聴取によれば嘘であったのかもしれないのだけれど)

 


メディアを通して届けられる際には事実を反映しないこと、結果として全体最適を得られない刹那がまざまざと描かれます。

あのベランダからすべてが始まり、またベランダで終わる。

 

どうすれば彼女を救えたのか。

 

観客である私たちは、母親と呼ばれたかった安藤サクラの表情に釘付けになり、エンドロールをぼーっと観ながら考えずにはいられない。

 

“釣り竿”という希望

仕事がない、カネがないことが家族の「将来への不安」を覆う中で
その対比的なアイテムとして“釣り竿”がありました。

この物語における一番のキーアイテムだと思います。

 

家族たちの万引きの主な対象はお菓子、カップラーメンなど食べ物が多くその場消費的なアイテムでした。

試着室で豪快に盗んだ水着もシーズナルな娯楽のためのモノです。
一方で、釣り竿は投資的な性格を持った道具です。

釣りはそれ自体では意味を為さず、魚を釣ることによって初めて効用を得ることができます。道具を使うためには知識が必要です。

 

アフリカの貧困層へ援助を行う際

「魚を与えるな。釣りを教えろ」という言葉がありますが
これは即物的な対応ではなく、そこにいる人間が自立してこそ、根本的な解決へと繋がるという、ひとつ代表的な示唆だと思います。

 

リリー・フランキーの「売って金にしよう」という言葉はまさしく貧困的思考から発せられるもので、その場しのぎの行動です。
物語のラスト、息子が釣り竿を使えるようになっている点は前段とのコントラストがくっきりと現れ、象徴的なシーンのひとつでした。
釣りのやり方を知ったのも、本という貧困にいる環境から離れたアイテムで、「道具を使う」ことを息子が覚え始めたことをより強調します。
息子は振り返らず、リリー・フランキーは置いていかれたわけです。そして父になれず。

  

感想

「空気人形」「海街ダイアリー」「そして父になる」を事前に観ていて、これが自分にとっては是枝裕和4作目でした。

物語の進め方、メタファーであるアイテムの散りばめ方が秀逸でまた何度も観たくなる映画です。

 

女性がどう観たかは気になります。

性的な描写も多く、イケメンが出てくるわけでもないので。

また個別に切り出して語りたくなるテーマも多く、興行収入が伸び続ける理由も理解できました。

 

家族はきわめて私的な空間であり、不可侵的な単位でもあります。

いま考え巡らせているのは、極めて家族的な愛情や慈愛は誰によって証明されるのかということ。

 

内的に湧き上がる感情は言葉と身体的な接触により伝え続けることでしか証明ができません。例えば、供述とセックスがその感情媒介の手段です。

とても拙くて脆いけれど、どちらもメディアを介さない直接的なコミュニケーションです。

ひさしぶりにマクルーハン先生を読みたくなりました。

 

愛が傷のように浮かび上がって、そのまま届けられたら苦労しないのにな…

なんて野田洋次郎みたいなことを考えてます。

でも、愛は可視化しないからいいんですよね。ドラマになるし、家族になる。

 

これは一人で観てよかった映画でした。

おすすめしてくれた人々と松岡茉優のおっぱいに敬礼。

ご意見ご感想は

はげちゃん (@hagechan7) | Twitter

こちらまでお願いします!!!

27歳、はじめて株を買った日。

 

今日、人生ではじめて株を買った。

欲張って二つも買ってしまった。

きっと株ってじゃがいもと玉ねぎをカゴに入れるみたいに買っていいものじゃない。

 

 

大学卒業後、絶壁と化した200万円の奨学金

少ない手取りと一人暮らしの二重苦を圧倒的節制でカバーし、予定より15年早く完済したのが昨年。

貯金残高が少しずつ積みあがる小さな幸せと、物足りなさ。

 

その正体を最近見破ることができた。

毎月10万円を貯めて返済に充てるという行為は、自分にとってある種のゲームだった。

企画書を作り、提案し、カタチにし、対価報酬を得ること。

自分という身体性をもって、経済活動へ関与すること。

 

そうして奨学金返済というミッションをクリアしたあとの

クリアすべき対象を喪失した半年間。

iDeCoもNISAも申し込んで、初心者装備で歩き始めたのが今日。

 

 

朝9時に株を買った。

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出社前、歯磨きをして深呼吸をしてからすぐだ。

指値で買ったからいつ約定になるのかわからなかったけれど、1分後にはもう東証の海へと旅立った。

 

 

仕事中、値動きは見なかった。

それでも、十分に興奮に足る遊びだった。

銀行口座から飛び出した80万円は、今日2つの企業の資本になった。

自分の稼いだ金が毎朝ニュースでやってる「グラフ」の一部に組み込まれたことが何より嬉しいし、ゆくゆくはWBSで特集が組まれて注目されたりしてほしい。

 

新しいおもちゃを買うでもない、

誰かと食事をするでもない、

「お金を動かす喜び」を感じ、ドキドキした日。

 

 

 

 

帰ってやっと保有銘柄の終値を見た。

評価損益額は「-12738円」

 

マイナスを見ても、揺らがなかった。

 

1万円がなくなったくらいでどうってことないと思った。

それは心が死んでいるからかもしれないし、

 

少し大人になれたからかもしれない。

 

大森靖子 ツアーファイナル@中野サンプラザ



彼女が見せてくれるものはいつだって最高で、息を忘れてしまうくらい圧倒される。



初めて知ったのは逃げ照ちゃんのツイートからだったと思う。
逃げ照ちゃんが好きだった「PINK」を聴いたのが出会い。

それからYouTubeで『魔法が使えないなら死にたい』を100回くらい聴いた。
『ミッドナイト清純異性交遊』で心を掴まれて、今に至る。






◆2015年4月26日 中野サンプラザ

ツアーファイナル。

弾き語りから始まって朗読やバンドサウンドまで、ほぼ休みなく。
ラジオで「普段ダメダメでも、ステージに立ってる間はベストを尽くす」と言っていた通り、空間を完璧に掌握するステージ。
静寂をコントロールする感じとか本当に鳥肌立った。

彼女が叫ぶ空間が本当に好き。


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二階席からキラキラのステージで歌う彼女の声を聞きながら、ほんの数ヶ月前の自分の生活を思い出していた。
そのどれもが真っ暗でどうしようもない。
本当に毎日が嫌で嫌でしかたなくて、ぜんぶ徒労で無意味だって思ってた。
春が来ても、返事はない。

誰かの端っこだけをかじるような日々で、食費は1日500円で。

深夜のコンビニに肉まんはなかった。
西友のオバサンは優しくなかった。
牛乳とスイスロールだけ買って帰った。

そういう生活に、彼女の音楽は自分にぴったりだった。
彼女のラジオを何度も聴いて、笑ったり泣いたりした。





「狂っても狂ってもちゃんとやれる」

って言葉を信じてみようと思えたのは、彼女のアーティストとしての立ち振る舞いがカッコ良くて、勇気を貰ったから。

いまようやく立ち上がれた。

もっともっと、頑張らねば。
受け取った力を抱いて生きねば。




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◆万華鏡


彼女を通して知ったアーティストも多いなと思う。

majoccoさん
渋澤玲さん
ごとうゆりかさん
さいあくななちゃん
ゆっふぃーさん

などなど、たくさんのアーティストに触れるきっかけをくれた。
いろんな世界を覗かせてくれた。

だから僕にとって彼女は万華鏡のようなひと。
女子トイレを覗いていた彼女の窓からは、カラフルでキラキラな世界が見える。






ライブが終わってアナウンスが流れる頃、やっと息をするのを思い出して、同時に息を止めることは許されないのだと悟った。
毎日は毎日やってくる。

「あたしはミラーになりたいんですよ。みんなが持ち寄ってきたものを増幅して反射する鏡に。そういう芸術になりたい」



センチメンタルな夜とふたりぼっちで、明日は怖いけれど、その明日を超えなければまた今日ような日を迎えることができない。

毎日は手作りだよね。
光って光って反射できるように、おしごとがんばるぞい。

おやすみ。


さいあくななちゃんの個展がヤバかった

さいあくななちゃん個展 「夢という字がどんどんダサくなるとき」


高円寺に行ってきました。
さいあくななちゃんの個展に行くためです。

場所は無善寺。

ピンク!ピンク!ピンク!って感じでサイコーの空間でした。

あと、彼女がお客さんにする対応は完璧だったとおもう。
見に来てくれる全ての人に愛を持って接していたし、一人一人への感謝を忘れていなかった
完璧なアイドルがいるとしたら彼女だとも思った。



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写真載っけてみたんだけど、これじゃあヤバさが伝わらない。


彼女のフライヤーを踏みつけながら360度×天井×床に構成されたあのヤバい空間を感じて欲しい。
それはミッキーの写真を見ることではなく、ディズニーランドという夢の国に行くことに意味があるように。










展覧会の終盤にライブがありました。


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そこで彼女が話していたことがとても印象的だったので書き留めておきます。



「わたしは22歳になる年で、周りのみんなが就職していくなか、自分だけが置いていかれるような感覚を持っている」
「周りが現実的なところへと歩みを進めるなかで、自分だけ夢を追いかけていていいのか」と。


これはきっと「アーティスト」と呼ばれる人の多くが感じる不安感・孤独感だと思う。
アーティストになるにはものすごい覚悟が必要だ。
その道を志すことによって捨てなければならないものがあまりにも多い。


夢を追いかけることには大いなる犠牲が伴う。

就職しないで絵を書き続けるということ。

家賃は?光熱費は?食費は?……将来は?


きっと、とてもこわいことだ。
毎日が不安でしょうがない。





それでも、震えた声で「あたしの絵がロックンロールになればいいのに」と叫ぶ彼女は美しかった。

ピンク色のステージで精一杯の身体表現と所信表明を見せてくれた彼女を眺めていたら、大森靖子を見ているときとおんなじ気持ちになった。

目の前の人間に本気で伝えようとしている。
その声に並々ならぬ決意がある。
おんなじ。
気迫を感じる表現。



アーティストになると言うのは簡単だ。
あなたが今日新宿で素通りした路上ミュージシャンだって、野望や野心はある。

けれどアーティストになるのは簡単なものではない。

それはもちろん技術的なことや才能ということもあるのだけど、それ以外にも捨てなければいけないことがたくさんあるからだ。



彼女には覚悟がある。
そして絵を描き続けている。

夢を追いかけている。



彼女が歌うのをやめたとき、体育座りの観客全員は拍手を送った。
それは彼女の見せてくれた覚悟に対する賛辞だと思う。








アーティストになる人には必ず人に応援される理由がある。
彼/彼女のためになにかがしたいと思わせる力がある。

彼女はそれを持っている。



それから、かつて大森靖子が歌っていた無善寺でさいあくななちゃんが歌ってる、っていうのはめちゃくちゃ泣けるお話です。

彼女が泣きながら見せてくれた覚悟が胸に残っている。
銀杏BOYSや大森靖子が彼女を変えたように、さいあくななちゃんも人の心を揺さぶるアーティストだ。


歌は世界を変えられないけれど、一人の人間の明日を変える力がある。
アーティストが開いてくれた一歩が誰かの一歩になる。

そういう世界がいいよね。



幸い自分は彼女のことを応援できる仕事に就いているので、少しでも彼女に力添えができたらと思う。

ライブの感想、お忙しそうで伝えられなかったのでここに書いておきます。









最高でした!!!!!!!!!!!!

ありがとうございました。

映画「世界の終わりのいずこねこ」感想 アイドルは世界の終わりを生き続ける

新宿のK's cinemaっていう小さい映画館で観てきました。
『世界の終わりのいずこねこ
http://we-izukoneko.com




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インターネットとかアイドルとかのお話ですね。
インターネットに常時接続しているいまっぽいとこを掬い上げてる映画かな、って感じの印象。
この前買った最果タヒ「かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡」も『インターネット×アイドル』がテーマでしかもSF未来っぽい設定なので、親和性を感じたり。





というわけでとりとめのない感想です。
ネタバレは避けるので、これから観る人が読んでも大丈夫(なはず)





■最高の前菜
映画上映前にかまってちゃんのライブ映像が流れた。
竹内監督がディレクションしたものらしい。

正直期待してなかった。YouTubeに上がってるような映像が大画面で見れるだけでしょ、意味あるの?くらいに思ってた。
これがめちゃくちゃ最高だった。映像が本当に綺麗だったし、引きの観客の画が映画の観客者としての自分を忘れさせた。
の子の熱量が決してうまくはないボーカルにのって伝わってきて、ライブ会場にいるような感覚に陥った。

音楽の力すげえ、って思った。
サイコーだった。心を掴まれた。
あと、歌詞と映画がリンクしてるのでそこもよかった。

逆に、ほかの映像が流れる上映日だったらまた違った印象を持ったかもしれない。

良いお皿に乗って、最高の前菜たるかまってちゃんの映像が運ばれてきて、メインディッシュへの期待が高まる、そんな感じ。






◼︎映画について

目が3つある女の子、ツノが生えてる女の子、しっぽが生えてる女の子がクラスメイト。


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世界が終わるんだから、将来なんてない。
10年後にはこの世界がもう消滅してしまうのだから。



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絶望、なにもしたくない、やる気がない、死にたい。
頑張ることの意味が喪失してしまった世界。
クラスメイトはいつも眠っている。

ディストピア







主人公のいずこねこは学校から帰ったらキャピキャピ配信しちゃう系のネット配信中毒者。
いつか終わりが来る女子高生という時代を世界に晒し続ける。



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いずこねこにとって生きることは表現することだ。
もっと言えば、歌って踊ることだ。
インターネットを介してそれをたくさんの見てもらっている。

人に見られることによって得られる承認っていうのはTwitterを見てても強く感じるし、このへんを取り上げるのはおもしろい。いまだからこそって感じ。
生配信のシーンは見ていて楽しかったというか、新しい!って思った。(なお、不満点もあり 後述)







宮台真司が20年前「終わりなき日常」を“まったり”と生きている女子高生を絶賛したならば、この映画は「終わりある世界」をどう生きるかを提示している

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映画に登場する女子高生やその家族、リスナーたちがどう生きたかは映画館で。(宣伝)





◼︎ここが残念だった部門


主人公のいずこねこが生配信をするシーンがあって、画面にコメントが出るんだけど、そこがちょっと引っかかった。
端的に言えば、配信者とコメントのタイムラグがもっと欲しかったなと思う。
そうしたら「ツイキャス」「ニコ生」の空気感がもっと出たんじゃないかと思う。

全体的なバランスや映画としてスムーズに進行するためには難しかったのかもしれないけど。
配信者の行動とそれに呼応するコメントがちょっと早いように感じた。

あ、もしかして未来SF設定だからコメントにラグなんて生じないのかな!??





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生配信のときに出るコメントのチョイスはよかった。
画面に常時10件-20件表示されるんだけど、アンチコメもあったし、コメント同士で勝手に盛り上がるカオスな空気感とかもすごくうまかった。
配信者とリスナーのかけ合い、親フラとかね。



◼︎一言感想部門


月詠まみを知れた


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かわいい







・ゆるめるモ! あのちゃんがデカい


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デカい






・緑川百々子の変化


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かつてももちゃん14才だった彼女がもう生徒役に入れないという刹那





・チョイ役かと思ってた西島大介


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こんなに出るんですか、ってくらい出てきて、途中から噛まないでがんばって〜って応援したくなった






・蒼波純の「重症か」(だったっけ?)というセリフ


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きわめてネット書き言葉的というか、まるでLINEで台本を作ったのではないかというほどのPOPさ
→それを絶妙に自然に演じる蒼波純のすごさ





・音楽が流れてる間の多幸感
やばい


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◼︎さいごに

この映画を観たあと、ゆるめるモ!の「あの」ちゃんがちょうどツイキャスやってたんですよ。
それで「今日あのちゃんが出てる映画見たよ!」ってコメントしたら「チョイ役だったけど〜」ってあのちゃんがレスくれて。



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いま自分は、アイドルが地続きになっている世界を生きているのだ、と思った。
映画に出ているアイドルに対してコミットし、小さく繋がれる世界。

だとすれば、世界の終わりはショートカットのアイドルの眠そうな笑顔とともにある。

メンヘラ展SPに行ってみた!インターネットからリアルへ



メンヘラがリストカットするのは「世界とうまく手が繋げないから」ではないか。
ツイッターにそれを上げるのは誰かに自分を見て欲しいという小さな願いではないか。

世界との手の繋ぎ方を探っているようにも見える。
美しいとは言えないが、理解できないことではない。





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メンヘラ展に行ってきた。初日である。


なんか巷で話題っぽい。
開催情報解禁時のツイートがRT5000くらいされてたりした。



基本情報はこんな感じ。
メンヘラ展 SP
http://menheraten.ame-zaiku.com/top.html#!page1

メンヘラ展 Special【会期:2015年2月4日 (水) – 2月12日 (木)】

出展者:
キュレーター:あおいうに @
Tumblr:uniaoi

メンバー:
ナカバヤシアリサ @
中村 雅樹 @
池田サチ @
Fluyn @
スペシャルゲスト:江崎びす子 様

会場:TAV GALLERY (東京都杉並区阿佐ヶ谷北1-31-2)
営業時間:11:00-20:00[定休日:木曜日]

あ、それから入場料は無料


以前から「メンヘラ展」についてはTwitterを通して認識しており興味はあったものの、実際に足を運ぶのは今回が初めて。



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左上の絵
ピンクで、子宮のような、心のような、人間のような、境界が曖昧で不安定な感じ。ずっと見ているといろいろな発見がある。



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「こうしていられたのはどうかしてたからだ」



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「拒絶」のエネルギーが強すぎて、惹かれてしまうという逆説。
無による拒絶ではなく、圧倒的な有による拒絶。



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メンヘラチャン



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お風呂に入っているかのように穏やかな表情でありながら、腕は外に転がっている。
ケースに押し込んでもうまく入りきらない身体の煩わしさ、という視点から見ても面白い。






ということで写真おしまい。
もちろんブログへの掲載許可はいただきました。
ほかにも紹介しきれないくらいたくさん素晴らしい作品があったので、是非。

会場の雰囲気はすごく和やかでいつまでもいれるような気がした。こじんまりした感じ。
一人で見にいくの不安だったけど、来場者のほとんどは一人客だったので怖がらないで大丈夫。
リアルな空間に身を置き作品と対峙して、心に咲いた感動が充満した状態で、アーティストの方と直接お話しできるというのはリアルならでは。
ご在廊だった江崎びす子さん、ナカバヤシアリサさん、ギャラリーの方、お話ししてくださってありがとうございました!


個人的な意見として投げ銭ではないけれど、ご在廊でなかった方にも気持ちを伝えたかったな、と。
たとえば、小さなグッズを購入するなどの行為を通して。
アートに触れるってものすごい感動的で、心がグルグルするくらい楽しいことで、それを言葉にするだけでなく、ちゃんとクリエイターの方に形として示せたらいいなと思った。リアルで。
5〜6万の作品を買う力がなくて申し訳ない限りですが。せめて、なにか残させていただけたらなあと思った。

社会と繋がる、って経済的に繋がることも含むと思うので。







それから、これは触れるべきか迷ったことだけれど。
メンヘラ展についての意見として「ガチメンヘラがファッションメンヘラを見下す」という構図がメンヘラ界隈にあるのはなんとなく知っている。具体的には「メンヘラを利用するな」「そもそもメンヘラではないのではないか」といった声。

個人的にはすごく悲しい意見だと思う。

誰かやその活動を強く否定することは、見下す人が最も欲しいはずの「寛容」を自ら拒絶することにほかならないからだ。
分かり合えないこともある。しかし、分かり合えないことを理解することだって必要なことだ。
賛辞しないまでも、否定することはない。
医者に名前を貰ったからといってその人間が強くなるわけでも弱くなるわけでもない。

分かり合えないけれど、共に生きる」という寛容が、もっと広がればいいなと思う。



というわけで、大変心に残る展示だった。行ってよかったなと帰りの電車の中で何度も思った。
行こうか迷ってる人は行ってみたらいいと思う、タダだし。


アート系の展示会はいくつか行ったことがあるけれど、その中でも群を抜いてヤバさがあった。
メンヘラ展は「アート」「自己表現」という手段によってリアルな世界との手の繋ぎ方を模索していて、それは精神疾患のない僕にも伝わった。理解できた。心が震えもした。ちゃんと、繋がった。

恋愛って「一つのことしかできない」ことが賛美される唯一の行為かもしれない

愛の形は人それぞれだけれど、愛の重さは測れるような気がする。
完璧な天秤は必ずどちらかに振れる。
もちろん、その意味は測れないのだけれど。





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学業や仕事においてはあらゆることに手を出して成績を修めることが優秀さの証明になる一方で、恋愛ではひとりの人を一心に愛すことが求められる。

それはダメな人間ほど得意な行為なのではないか。
メンヘラの自己破滅的な恋愛所作などは最たる例だ。


ダメな人間は生きる窓口を全然持っていないから、「好きな人」という窓に対してすべてのリソースを投げ込むことができる。花を挿したり、食事を置いたり、時折愛を捧げてみたり。

コンビニで買ったミネラルウォーターを口に含みながら、不安と喜びで気絶しそうな夜、愛を確かめるにはやや不十分な恋人の裸体の上で、漏れたのは喘ぎ声かはたまた溜め息か。




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ダメな人は往々にして利他的である。
良くいえば一途、悪く言えば馬鹿だ。

その窓が割れてしまったときのことを考えたりはしない。とにかく愛を信じている。いや、そうではないとしたら。ガラスの破片が飛び散って自分の身体を傷つけ血が出て痛みを感じる、それを歓びとするような性感体があるのだろうか。


生きること全般において、分散投資したほうが被る損失は少なくて済む。悲しみも喪失もほかのなにかで紛らわすことができる。

なのに、どうして、そこまで愛してしまうのか。
レバレッジマシマシで突っ込んでしまうのか。



もしかしたら、過去「救われなかった自分」を慰めるために誰かを愛しているのか。

あの時手を述べて欲しかったから、誰かを愛すのか。
自分を愛すことができないから、誰かを愛すのか。


忘れてはならないのは二人の効用最大化を目指すことが、どんな関係であろうと大切だということ。独りよがりにならないこと。




まあ、ワガママで独りよがりで視野が狭くて、本谷有希子の小説に出てくるような女って痛々しくて愛おしいんだけどね。