すべてのメンヘラが観るべき映画「クワイエットルームにようこそ」

昨今のメンヘラは臨終力が低い。

みんな生きてやがる!!!!!!

もちろん死んだメンヘラは偽物のメンヘラであって、生き延びるメンヘラが本物であると思うのだけれど。

 


ところで、メンヘラとツイッターはとても相性がいい。

フォロワーからの緩やかな視線を浴びつつ自意識を垂れ流すのにはもってこいだ。

自撮り写メの合間に切った腕の写真を載せればたちまちReplyとFavが獲得できる。

簡単なゲームだ。

 

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◆映画を観た

さて、「クワイエットルームにようこそ」という映画を観た。

監督は松尾スズキあまちゃんのマスター。

主演は内田有紀、同棲相手は宮藤官九郎あまちゃんの脚本家。

メンヘラのアスカと、放送作家の鉄ちゃん。

 

 

あらすじはこんな感じ
仕事も恋愛も微妙な28歳のフリーライター明日香(内田有紀)は、ある日、目が覚めると見知らぬ部屋にいた。そこは“クワイエットルーム”と呼ばれる隔離された閉鎖病棟で、ナースから薬物とアルコールの過剰摂取により運び込まれたと説明される。さまざまな問題を抱えた患者たちと出会う中、彼女は自身を見つめ直してゆく。
 
 
主人公アスカが拘束されるクワイエットルームの外では夜な夜な誰かの泣き声が聞こえる。
病院でできたアスカの友達・ミキ(蒼井優)はこんなセリフを吐く。
 
“泣くわよそりゃあ。こんなに人間が集まってるのに、こんなに孤独な場所ほかにないもの”

 
 
このセリフは例えあなたが精神病患者でない一般人だとしても、考えてしまうセリフに違いない。

都市に住むものが抱える永遠の課題だ。
とかく東京はノイズが多い。
一度群れからはぐれてしまえば、一人ノイズを避けながら生きる必要がある。
孤独は山の上ではなく、街の中にあるのだ。
 
インターネットだって同種の葛藤はある。
Facebookに中学校の同級生が“自分ではない誰か”とバーベキューに行っていたら、そっと閉じる。
TwitterのTL上にはたくさん人がいるのに、どこか寂しい。
 
人がいるのにどうしようもなく寂しい。
 
居場所にしつつあるような場所が、ふとした拍子に馬鹿馬鹿しく感じる。
寂しいから寄り添っているはずなのに、いつしかその場所でも疎外感を感じてしまう。
どうしてかわからないけれど、そんな人間は多い。
 
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◆狂ってるってナンダ

この映画に登場する人々は基本的にどこかおかしい。
強化ガラスに体当たりして逃げようとする者あれば、自分の髪の毛を燃やす者あり。
 
 
そもそも“普通”とはなんなんなのか。
閉鎖病棟の患者たちは自分のことを“異常”だなんて思っていないのだ。
 
例えば摂食障害のミキはこんなセリフを吐いている。

私が一食食べた分、世界の何処かの価値のある誰かの食事が一食減るんだ。そのシステムに気づいちゃったから、私は食べられないの。私が食べないのは意味のあることなんだよ。アスカとおんなじ。まともなのにここにいる。システムが悪いだけ
 
このセリフから分かるように、彼女は自分を“まとも”だと考えている。なぜ閉鎖病棟にいるのか、彼女はその答えも知っている。そう、悪いのは自分ではなくそれを認めないシステムなのだ。
 
 
彼女は誇大妄想の患者に映るかもしれない。「ふつうの顔したメンヘラ女」と言って嗤うのは簡単だ。それが“まとも”な観客の受け取り方なのかもしれない。実際、この映画では精神病患者たちの突飛な行動をコメディとして描いている。
 
 
 
しかし、考えてみたい。
人間ならなんらかの壁〈できないこと〉に直面して、逃避したくてたまらないことがある。
そんな時、思わずトイレに駆け込んで泣いたり、撮り貯めたアニメを見たり、あるいは手首を切って落ち着いたりするかもしれない。
それは自分で考えた防衛機制=最適解なのだ。
 
ミキは常識や狭い価値観だけで生きている私たちの比喩である。
 
閉鎖病棟にいるから狂っているのではない。
家でインターネットしながら休日を終わらせるやつだって、立派に狂っている。
Twitterで自意識を吐き散らす私よりも、きちんとトイレにゲロ吐くメンヘラちゃんのほうがよっぽどお行儀いい。
 

正常とはなにか?異常とはなにか?
そこに明確な境界はない。

摂食障害の彼女を嗤うことは、自分たちを嗤うことと同じだ。
 
 
 
 

◆空からメンヘラを見てみよう

さて。
 
「この映画のメッセージは何か」
 
なんてイカれた現代文みたいな問いを立てるのはやめにして、自分なりにこの映画の感想を書いておきたい。
 
 
西野(大竹しのぶ)がアスカの夫からの手紙を勝手に読むシーン。
大切な手紙を嘲笑うように朗読されたアスカは激昂する。
それでも西野は「生きるって重いものよ!!」と嘲うばかり。
 
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(ちなみにこんな顔しながら手紙読んでる)
 
 
ここで頻出するのは「うっとうしい」というキーワードだ。
手紙の内容に付随する回想シーンがある。
睡眠薬を大量服用し暴れるアスカは鉄ちゃんに対し「私ってうっとうしいよね」と言う。
 


そうだ、メンヘラはうっとうしい。

 
 
メンヘラたちはリストカットや薬の過剰摂取によって自分を取り巻く世界から逃亡する。
そんな自分が傍から見てうっとうしいことも知っている。
むしろ、自分のことをうっとうしいと思っていなければ腕など切ったりしないだろう。
 
しかし、メンヘラは世界から逃げ自己否定を何度も繰り返しながらも、そんな自分を肯定してくれる誰かを欲している
 
アスカの場合、それは恋人である鉄ちゃんだった。原稿の締め切りに追われ自暴自棄になってODかましたあの夜もそうだ。アスカは鉄ちゃんに向かって灰皿を投げながら、それでも鉄ちゃんの愛を求めて「赤ちゃん作ろう」と言って抱きつく。
メンヘラは自信がない。自分でさえ「うっとうしい」と思っているのだから、他人なら言わずもがな。
だからすぐに体を許す。男に抱かれることで、現在の自分を肯定する。
 
メンヘラが依存型恋愛になるのは圧倒的な自信の無さから来ていて、「こんな自分」を認めてくれることにecstasyを感じてしまうからだ。
 


 
 

 

長くなった。まとめる。

メンヘラのうっとうしさというのは、一方で「殺してくれ」と懇願しながら「愛してくれ」と叫んでいることだ。
 
よくわからないよメンヘラちゃん
いや、少しだけ分かる。
頭の中で考えていることをそのまま実行できないことなんてよくある。
本当は大好きなのに遠ざけたり。
とても悲しいのに笑ってみせたり。
 
よくわからないけど、否定はできない。
苦しみは理解できる。
 
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◆もしも君がメンヘラに出会ったら

 
 
今後インターネットライフを営む中であなたは数多くのメンヘラを見ることだろう。
もしくはあなたがメンヘラかもしれない。
 
カミソリで切られた手首写真を見ることになるだろう。
愛用のカミソリで手首を切ってうpするだろう。
 
 
 
メンヘラは逆説的に圧倒的な生を訴えかけてくる存在だ。
人は死に隣接することで、生を見い出す。
お笑い芸人が交通事故で死んだとき、誰もがその生について考えた。
 
 
 
映画の解釈が観客の数だけあるように、メンヘラの実存も人それぞれだ。
「生きるって重いもんよ」=「Life is a drag」というメッセージ。
「Life is Happy」というメッセージ。
 
正解がどちらであるか明示されない。
どちらも間違いである可能性だって十分にある。
相反するメッセージが提示されるのはメンヘラがよくわからん存在であることを象徴している。
 
 
結局のところ、“メンヘラ”なんて括ってみてもわからない。

 
メンヘラには明るくなれる薬も、気分を落ち着ける薬も必要なのだ。
答えも薬も一つでは足りない。
 
 
私は神様に居場所を選んでもらうため、薬を飲んだ。そしてクワイエットルームに辿り着いた。それ以上でも、以下でもない。最高にめんどくさい女が着地するべき正しい場所にただいるのだ。ようこそクワイエットルームへ
 

物語的な生き方を実践するメンヘラちゃん
彼女たちの生き方はロックだ。
風俗で働いてたりするともっとロックだ。
 
 
メンヘラは自分の生き写し。
泣いてるメンヘラちゃんを見かけたら積極的にふぁぼっていこう。
優しさは罪にならない。
 
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