Nは嘘が上手だった


「もしかしたら今日死んでしまうかもしれない」という人が僕のタイムラインにはたくさんいる。

あるときもまたそうだった。

僕はTwitterで何度も死にたいと願う彼女に連絡をとった。
初めて聞く声は驚くほど明るかった。

彼女をNとする。

声色を聞く限りではNが死にたがっているようには感じられない。
むしろ自分よりずっと生きるのに向いている人なのではないかという印象を持った。

周りにいる人々にもこのようなふるまいをしているなら、そのパブリックイメージは「明るく優秀で優しい女性」になるはずで、それがTwitterリストカット画像を上げる彼女とリンクすることはないだろう。


それが彼女の悪癖であることに気づいて「明るく振る舞うのが上手過ぎるね」と指摘するとNは言葉に窮した(それは一瞬であったが確実に)

そのときNの心の乾きを見た気がした。

それでも彼女はふふふと笑うだけで、また同じように話し続けた。
Nは僕を“周りの人間”と同じ配列に置こうとしているように見えた。
悲しかった。






NのTwitterの更新はあるときを境にパッタリ止まってしまっていた。

このままではいつ死んでもおかしくない。生きているのか、死んでいるのかさえ知る由もない。
と、思って僕は通話ボタンを押したのだった。
このままでは目的を達することができない。





なにを伝えればいいのか思案した挙句「お互いに本を贈らないか」と提案した。

理由はいくつかあった。

ひとつはメッセージ交換の速度をゆるめて、少しでも考え直すきっかけを与えること。
ひとつは本を読んでNの思想の一端に触れること。
もう一つは彼女の存在を確かめること。


住所と本名を教えた。
その2日後に本が送られてきた。
その迅速で丁寧な対応に優等生らしさを嫌でも感じてしまう。
送られてきたのは「星の王子様」
読んだことがなかった。



一番大好きだというページに手紙が入っていた。


この手紙はどこで書いたのだろう。
どんな机でどんなペンで、いつどんなときに書いたのだろう。
どんな旅をしてきたのだろう。
東京のワンルームでこの手紙を読むとき、一度だけ話したあの日のことを思う。
タイムカプセルのようだ。手紙は空気感を伝えるメディアである。
手紙をしたためるNについて思いを馳せることが手紙の持つ重要な機能だろう。




パッケージングされたNの文字は規律正しかった。
可愛らしい便箋には不釣り合いなくらいに。
どこを探そうと絶望の影はない。


綴られていたのは感謝のメッセージばかりであった。

「最期」という言葉が繰り返された。
Nはこの手紙を綴った後に死んだのかもしれない。
そう思うと「ありがとう」という文字が胸に染みて痛かった。


「あなたには人を救える力があるよ」と書いてあった。


Nは嘘をつくのが上手だった。
自分が命を絶てば僕にそんな力はないと証明されてしまうからだ。











Twitterで「死ななきゃいけない」「絶対早く死ぬべき」と繰り返していたNの苦しみの源泉はどこにあったのだろう。
死にたくなるほどの絶望に興味があった。



いつか講義で聞いた。

「人生にはライフコースがある。君たちは大学を出てから、大企業に就きやがて家庭を持つだろう」

ライフコース、言い換えれば人生の時刻表だ。
ある程度の誤差こそあれ、たいがいの人生は決められたところへ収束していく。

そんなことはない、選択肢は多様でたくさんの自由があるのだ、と誰かが言う。
果たしてどれほどの人がその道を選ぶことができるだろうか。
死ぬ自由はその中にあるだろうか。


直接的なことは口にしなかったがNもどこかでつまづいたようだ。
恋人にも親にもそれを隠し続けた。
「Nちゃん」で有り続けることで、彼女の痛みは大きくなった。




凡人の僕らは電車にならざるを得ない。

電車に期待されていることは規則正しい時間に着くべき場所へ行くこと。ダイヤの乱れは許されない。

いい大学を出たらいい就職をすることが求められる。
子どもの頃いい子でいれば、将来もきっといい子であろうという期待を背負って生きる。


Nは中学の生徒会長だった。
実家にはそろばんと書道のトロフィーが飾られていた。

Nはみんなから期待されるいい子だった。
だからどんなときも笑うのが上手だった。
そうして自室で腕を切った。


周囲からの期待はレールのようにまっすぐ伸びる。
「死にたい」というのはそのレールから脱線してしまいたいということなのだと思う。
人生の脱線事故


“普通のいい子”であろうとすることは想像以上に疲れる。


僕が出会った中で「取り繕う」ということに関してNの右に出る者はいない。
作り上げられたNというキャラクターを完璧に演じているように思えた。
彼女は彼女自身を生きることができていたのだろうか。



Nに関心を持つに至ったのは、彼女が書く苦しみが自分に代入可能であったからだ。
死にたくなるほどの絶望に興味があった。

連絡を取ったのは、どちらかといえば自分のためだ。
極端に言えばNは並行世界の僕のように思えた。
だから、死んで欲しくなかった。ひとりぼっちになるのが怖かった。

自分が誰かにそうしてほしいことをNに対して行うことで、自分を救おうとしていた。
メサイアコンプレックス、これも立派な病気だ。


「メンヘラを心配することなんて徒労だ」とする向きもある。
真っ当な意見だ。生きてて欲しいと願うこと、それは紛れもない傲慢なのだ。

命の決定権は個々人に委ねられている。








そうか。
じゃあ彼女が悲劇のヒロインであるなら、と考える。
(彼女の人生を一つの映画に仕立てている自分に畏怖する)

じゃあ僕の立ち位置は?
もしも僕が観客であるならばNが自死してもそれをひとつの決断として受け取れるのかもしれない。
バッドエンド。
 

しかしそうではない。

贈られた本と直筆の手紙が目の前にある以上どうしても割り切れないのだ。
Nが死んでしまうことは受け入れ難い。
たとえ僕がコマ送りにしなければ見えないようなエキストラだとしても。
人生の1パートを一つ共有したことで、どうにも彼女を大切に思ってしまう。

どうしたら守れるのか、考えている。
 








もしこれが創作であればこのあたりでオチをつけるところだが、残念ながらこれは物語ではない。
物語であればよかった。

僕は彼女に本を贈り返せずにいる。
そうしたら物語は歩くのをやめる気がして。

傍観者でいられれば適当に泣いて済んだのかもしれない。
絶望を回避するにはエタノールサンシャインのクレメンタインよろしく、記憶除去手術を受けるしかない。






結論から言って自分に「ありがとう」と言ってくれた人が死んでしまうことは悲しい。

いつか小説家が語っていた。
「文章を書く時は一人の読者を想定して書きなさい」

だとすればこの文章はNに捧げたいと思う。
Nがここにたどり着いて読んでくれることがあるなら、勝ちだ。
それが何よりも嬉しい。



Nの手紙はずっと捨てない。
これから先彼女ができてもディズニーの缶に入れて見つからないようにしておく。





悲しくなった時はこっそり読むよ。
そのたび、Nに「ありがとう」を返すね。